川崎北高校野球部について

 神奈川県立川崎北高等学校は昭和49年(1974年)4月、当時の日本の高度経済成長期であった昭和30年・40年代の社会背景の中、あらゆる社会事象の変革の中でいわゆる団塊の世代として活躍してきた人々の次世代に対して、公の立場で多くの教育機会を与える場を設ける必要の中から計画を促されたいわゆる「神奈川県立高校200校増設計画」の第一次開校予定として発足、開校した県立高等学校です。川崎北部学区ではその計画の中で最も新しく開校した生田高校に次いで開校した高等学校です。
 
 川崎北高校の野球部が正式な部活動として発足したのが昭和51年のことでした。高校野球という、アマチュアながら社会性のきわめて高いスポーツとしておそらく数多くの高等学校で開校後性急な発足が自他共に促されたチームが多いことと思いますが、こと川崎北高等学校の野球部も開校直後からその動きがあったにもかかわらずなかなかその実現が難しい状況にあったということを聞きます。川崎北高校野球部発足にあたり、まずその大きな壁として当時の学校長であった池田昂二先生の強い意志によるものがあったようです。池田校長は大のサッカーファンとして野球よりはむしろサッカーの強豪校としての川崎北高のスポーツの伝統を作り上げたかったらしく、高校野球に対する意識についてかなり辛辣なものであったということを聞きます。

 しかし開校後数年が過ぎ、野球部の発足についてそれまで野球経験のある生徒からの強い要望が多く、開校後三年後の昭和51年に当時国語科教諭の大胡弘一先生を顧問として迎え正式に硬式野球部として発足されるに至りました。200校計画の最中に設立された県立高校だけに、当時は部費もままならず設備も実にずさんな状態での部としての出発でしたが、公立校ながら各部員の野球に対する意識は非常に高く、その年の秋に初めて出場した公式戦である秋季川崎地区のブロック大会で強豪の法政二高をやぶり川崎市長杯高校野球でも優勝。発足黎明の弱小野球部にとって数多くの関係者を驚かせたと言われます。夏の大会2回目の出場で3回戦に進出。当時の公立高の野球部としては比較的安定したスタートで数々の試合を行っていきました。しかしながら発足10年間は夏の大会に限れば初戦敗退も多く、ハンドボールや陸上といった川崎北高を代表とする数ある部活動の中では生徒や教師からの野球部の活躍に対しての期待が薄かったというのも事実でありました。

 川崎北高の野球部が発足して約10年、大きな転機がやってきました。当時新任教師として川崎北高校に赴任した体育科教諭加賀谷実先生の監督の就任でした。加賀谷監督は横浜市立南高校でピッチャーとして野球をされていましたが、選手としての実績を思うようにあげることができず大変苦労されたと聞いています。しかしそれまで培ってきた経験を指導者の立場で川崎北高野球部で大きく発揮することができました。監督就任後初めての夏であった昭和61年、川崎北高野球部では歴代最高のキャプテンとして名高い青木弘一主将らを率い久しぶりの3回戦進出、翌年は好投手塔尾を育てて私学強豪日大藤沢を延長戦土壇場まで苦しめるなど加賀谷監督指導の下徐々に公立の実力校としての力をつけていきました。昭和63年にも好投手深沢を擁して秋の県大会では私学強豪横浜高校を破り、翌平成元年には同様横浜高校に敗れたもののチーム発足以来初の4回戦に進出しました。野球部各部員の懸命の努力と加賀谷監督の熱心な指導で公立校としてはその実力を評価される位置につけつつありました。

 そして川崎北高が公立の雄としての名が広く知られるようになったのが平成2年の夏。朝西史徳キャプテンの下、好投手河原純一(読売ジャイアンツ・西武ライオンズ)を擁して県大会ベスト4に進出したという川崎北高野球部にとって偉大な夏の出来事でした。初戦は岸根高校に延長12回と苦戦したものの4回戦では私学強豪横浜商大高、5回戦では当時公立最強といわれた山北高校をともに完封しチーム発足以来初めてのベスト8進出、そして数ある名勝負のひとつとして現在でも語りつながれる厚木高校との延長16回にわたる死闘の末の勝利でした。準決勝では惜しくも神奈川工業に敗戦を喫してしまいましたが、厚木高校との死闘は名実ともに川崎北高野球部にとっては最大の試合であり、神奈川県大会準決勝進出はチームにとって、また学校にとってもすばらしい財産になりえたことは疑いないことと思います。以後川崎北高野球部は神奈川公立の雄として上位進出はもちろんのこと、県立高として甲子園進出を広く期待される強豪となっていきました。

 しかしまたも転機が訪れました。それまで北高野球部を熱心に指導されてきた加賀谷実監督と森屋誠一部長の大沢高校へ異動、そして新たに池田隆監督の就任ということになりました。池田監督は加賀谷監督の野球を継承すべく熱心な指導を行いましたが、県内の私学の野球部強化や厚木西や百合丘などといった県立校新興勢力の台頭から次第にそれまでの公立の雄としての川崎北の活躍がなされなくなりつつありました。ときにはそれまで負けるはずの無かった相手に完敗するなどということもしばしば見受けられ、それまで北高に寄せられていた周囲からの期待も徐々に薄れつつありました。しかし池田監督の真摯な姿勢と熱心な指導は過去の栄光としての川崎北高校野球部のそれまで活躍を改めて見つめなおし原点に回帰するという意味も含めて川崎北高の野球部にとって非常に価値ある、意味のあることであったと思います。

 平成17年4月池田隆監督の異動に伴い、相模原・東林中学から佐相眞澄先生が川崎北高に赴任、野球部監督に就任されました。公立の雄と呼ばれたのちの低迷から新たに神奈川県立校の強豪と呼ばれるようなチームにするべく厳格かつ熱心な指導が日々行われています。それまであこがれであった甲子園を目標として各選手も熱心に練習を行っています。すばらしい夢に向かって今まで以上にがんばってもらいたいと願っています。